日光(その4)―星降る街角と防虫剤―

「この先、いろは坂なんかはどうですかねえ?」


板谷くんはレジで支払いを済ませながらマスターに尋ねた。

「行く気かい?お客さん。やめた方がいいよ。自殺行為ってもんだよ。そりゃあ。」


ボソボソっとしか話さないマスターの唯一ハッキリ聞き取れる言葉だった。

「そりゃそーですよね。こんな雪降る夜更けに、いろは坂行こうなんて、どこかのナフタリンですよね。グハハハハハハハッ!」

ナフタリンとはツルツルして白色の、細長くウロコ状の結晶で、常温で昇華して独特の臭いを発し、防虫剤などに用いられているものであるが、その事とは全く関係無いらしく、どうやら能無しとか脳ミソが足りないとかいった事を意味するノータリンのアレンジのようであった。が、悲しい事にマスターはそれに何の反応も示さなかった。

「グハハハハハハハッ!グハハハハハハハッ!」


板谷くんはなおも豪快な笑いを放ちながら店を跡にした。


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「さっきのギャグは『日光の手前』だったね。ファミちゃん。」
「ウン!」
「何だよ『日光の手前』って?!」


店の隣にある駐車場に向かう途中で板谷くんが怪訝そうに訊くと、イケちゃんはブロックサインの途中で頬の皮をビロ〜ンと伸ばしながらこう答えた。

「イマイチ(今市)って事だよ!」

やっぱり地声は結構低い。
たぶん、頬の皮を引っ張るのは皮下脂肪の量を確認しているのだと思われる。

「なんだ!コノ〜・・・アレだ!ファミちゃんは『ウン!』しか言わねえくせに!だいたいファミちゃんはあっちだろ!このナフタ・・・・・・」

板谷くんは駐車場に停めてあったファミちゃんを指差しながら、負け惜しみを言い掛けて止めた。

「ツーことで行こうか!」
「どこに?」


ボクは訊ねた。

「決まってんだろ!いろは坂だよ。」
「えっ!」


と驚くのと同時に、イケちゃんが急に笑い出した。

「ムミャミャミャミャミャミャミャミャミャミャ・・・!」

なにもそこまで笑わなくてもというぐらい長く、大袈裟に、

「ムミャミャミャミャミャミャミャミャミャミャ・・・!」


半ば無理やりといった感じで笑い続けて、息切れたところでやっと次の台詞を口にした。

「な〜〜〜んでだよ?!」
「ファミちゃん行きたくないよね。」
「ウン!」


イケちゃんが頷いていた。

「オ〜イ!板谷ーッ!ファミちゃんも行きたくないって言ってるゾーッ!」
「考えてみそッ!ここで帰っちまったら『奈良に行って大仏見ませんでした』とか『鹿せんべい食べませんでした』っていうようなもんなんだから行くっきゃねーんだよ!」
「フツー鹿せんべいは食べねえだろ!」


すぐさまイケちゃんがツッコミを入れた。

「いいんだよ!言葉の綾なんだから。このバカチンが!」

再び金八先生の半まねをしながら板谷くんは吐き捨てるように言った。

「さっきマスターに『星降る街角に、いろは坂がパラゾール』とか何とか言ってたじゃねーか!このバカチンが!」

ちょっとプリプリして、イケちゃんも負けずに金八の半まねをしながら反論した。


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「星降る街角?!・・・・・・ウォンチュッ!」

板谷くんはそう叫ぶと、軽くステップを刻みながら、敏いとうとハッピー&ブルーの『星降る街角』をイントロから口ずさみ出した。

「♪ズッ!ズズッズ!ズズズズズズズズ!ズーズズ、ズズッズーー!ウォンチュ!」
「♪ズッ!ズズッズ!ズズズズズズズズ!ズーズズ、ズズッズッ!・・・」

そして、ステップを一瞬止め、ミュージカルのように、クルッと1回転して右手に持った車のキーの先をイケちゃんに向けて尋ねた。

「なんだよ?!そのパラゾールって!」

イケちゃんは2,3歩後退りながら答えた。

「パラゾールって防虫剤だよ。知らねえ〜のかよ。実はあれ商品名なんだよな。ほら、セロテープとかセメダインみたいに商品名が一般に定着しちゃったんだよ。正式にはパラジクロロベンゼンっていうんだよな。」

さすがは現役H大生。落ち着きはないけど薀蓄はある。

「そんな事聞いてんじゃねーんだよ!このナフタ・・・」


と、僅かに間が空いた瞬間、今度は2,3歩前に出てイケちゃんは言った。

「だから、今どき防虫剤と言えばナフタリンじゃなくて、8割方パラジクロロベンゼンなんだよ。」
「たきゃらぁ、防虫剤の話なんかしてねえッツーの!!このバカチンが!!」

板谷くんはやっぱり金八の半まねで反撃した。


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ボクは「ふ〜ん」と感心していると、
突然、イケちゃんが右手と右足を大きく上げた・・・と思ったら、

「パラ・・・ジクロロロオオオォ・・・」

と長らくためた後に、勢い良く手と足を同時に振り下ろし、まるでクシャミでもするようにその続きを言い放った。

「ブ・・・ブ・・・ブェンズェン!・・・ブェンズェン!・・・ブェンズェン!・・・」

始まっちゃった・・・!ボクはそう思った。イケちゃんお得意の発音確認攻撃である。

「そいじゃあ、行こうか。」


板谷くんはイケちゃんを鼻であしらうようにして、ボクにそう言うと車に乗り込んだ。

「ブェンズェン!・・・ブェンズェン!・・・ブェンズェン!・・・」
「ブェンズェン!・・・ブェンズェン!・・・ブェンズェン!・・・」
「ブェンズェン!・・・ブェンズェン!・・・ブェンズェン!・・・」
「グハハハハハハッ!オイ、まだやってるよ!この男。」


ボクと板谷くんは暫くその光景を車の中から眺めていた。
少なくとも10回はやっていただろうか?イケちゃんは頭までグワングワン振っていた。
雪降る日光の寒空の下で、しかも、こんな真夜中、右手と右足を大きく振り上げ頭まで振って、何やら車に向かって何度も叫んでるんだから、傍で見てれば相当イカレた風に見えたと思う。

「う〜っ、さみ〜デービスJr.〜!」

そう言って、ようやくイケちゃんは両肩を窄めて交互にローリングさせながら助手席に潜り込んできた。


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つづく