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寝かせて
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大学4年間を振り返ると、あれだけ時間があったのになぜせめて都内をくまなく散策するぐらいの事をしなかったのだろう、狭い範囲の中でしか東京を知らぬまま過ごしてしまって勿体なかった、とつくづく思う。
高井戸のアパートにいた頃は特に行動範囲が狭く、だいたい家にいた。 よくやっていた事といえば、気に入ったレコードをかけながら近隣の迷惑にならぬよう極々小さな声で、しかしその情熱のほとばしりを頭が痛くなるほど自分の内側に向けて熱唱する(平井堅はその歌唱法を極めた人物だと勝手に思っている)とか、すっかり見飽きたエロ本を当てずっぽうにバッと開き、そのページがどんなに好みじゃない写真であってもそれをネタに果てなければならないという 「エロシアンルーレット」 など、ありふれたライフスタイルかな。 ふた部屋あるうち、ほとんどの時間を四畳半の方で過ごすようになっていた。 土壁に画鋲で押しつけた雑誌の広告ページ 「クノール・カップスープ」 の小泉今日子が可愛すぎる。 その影響で出前一丁と白米中心の食事にカップスープという優雅な朝食が加わった。 酒の席も何度か経験し、自分は酒が好きかもしれないと思ったのに、その部屋でビールの1本も開けたという記憶がない、なぜだろう。 ネスカフェ・ゴールドブレンド赤ラベルに砂糖もクリープもタップリ入れたものを5杯も6杯も飲みながら、片面がびっちりチョコのマクビティビスケットをモリモリ食べる。 テレビ朝日「トライアングルブルー」 などを観て床に就く。 若い時というのは眠りさえ調子がいい。 あっという間に寝付いて深く眠り、目覚めも爽やか・・・なはずだった・・・しかしこの部屋は 「目覚めの時間」 に問題があった。 朝8時。 下の部屋から大音量で音楽が聞こえてくる。 女の声だ。 それはそれはボロアパート自体がスピーカーとして震えるようなとてつもない音量なので、その部屋とは床と布団一枚隔てただけの私は、歌い手の念をカラダごとびしびし感じる。 「♪うらみ〜ま〜す〜」 朝から大音量で中島みゆきの 「うらみ・ます」 をかけている。 朝から恨まれた。 アパートの住民は全員男。 若い男が朝からこの曲をかけるとは一体どういう心持ちなんだろう。 誰の、どういう立場に共感してこの曲を聴いているのだ彼は。 とにかくこの曲を2日に1回は聞かされた。 それともう1曲ヘビーローテーションのナンバーがあった。 そのおどろおどろしい歌詞と歌唱法にはかなりインパクトがあるので、寝ぼけながらも布団の中でううう気持ち悪い・・・と身を縮めていると、 こんなセリフが聞こえて来る。 「たとえ私が事故で死んでもほっとしちゃいけない。幽霊になって戻ってくるわ」 朝から大音量で、ですよ。 ものすごく怖かった。 みなさんもヒマがあったらネットで歌詞を検索してみてはいかがだろう。 この歌を朝から聞かされる気分を想像してほしい。 その曲、私はつい最近までこれも中島みゆきの曲だと思いこんでいたのだが、戸川純の 「さよならをおしえて」 という曲だと知った。 原曲のシャンソン(こっちはちょっと切なくかわいい感じ)に戸川純が詞をつけたもので、とにかく貴方が愛してくれるまで、世界が滅ぼうが私は待ち続ける、という内容だ。 下の部屋の男、お岩さんをひどい目に遭わせた伊右衛門の生まれ変わりか何かで、罪滅ぼしのために毎日毎日我が身にこういう曲を浴びせかけていたのかもしれない。 目をつぶると「つけまつげ売り場」 と喩えられることもあるほどまつげが魅力的な私の寝顔を脅かすもうひとり、 それは大家さんである。 このアパートの家賃は月末に大家さんが自ら集金に来た。 不在の場合には入口近くにお金を置いておき、それを大家さんがカギを開けて持っていく、というシステムだった。 それだけでも今考えると変な話だ。 しかしこの大家さんはそこで終わらない。 いざ集金となるとノックもなしにいきなりカギを開けて入ってくるのだ。 それはこちらが寝ていてもお構いなしだった。 私のプライベートを守る最後の砦、引き戸がズズーッという音とともに開き、光の長方形が次第に大きくなっていく。 逆光の中お金を掴む大家さんのシルエット、その身のこなしは 「必殺シリーズ」 における山田五十鈴さながらだった。 そして光の長方形は小さくなって再び真っ暗になる。 もうちょっとこう、じゃあいただきますよ、とか、そういうのないのかねこのひと、と思いながら私は再び眠りにつく。 ゆうべせっかくしめた引き戸のカギが開いたままなのがなんとも虚しい。 どうせ勝手に部屋に入られるのだ。 帰省の途中でこたつの電源を入れたままかもしれないと心配になってきたので、腹いせに 「部屋に行って確認して欲しい」 という電話をしてやった事がある。 実家についてからどうでしたかと電話をすると、「電源は切ってあったけどああいう本(週刊プレイボーイなど)とかもうちょっと片づけた方がいい」 と言われた。 15年ほど前に行ってみたらもうなくなっていたこのアパート。 実はここでの写真が一枚もない。 それがとても悔やまれる。 私は1986年を生きていながらその86年がすごく格好悪いものだと思いこんでいて、当然86年の私のことも好きではなかった。 だからわずかにあった写真も何年か後に捨ててしまったのだ。 その先にあるだろう、もうちょっとマシな年の、もうちょっとマシな私に早くなりたい、その繰り返しでやがて私はかなりマシになっていくはずだと思っていた。 その後、年を重ねていっても思ったほど自分がマシにならないこともわかったし、昔の自分もそのダメさに味があったと気付くのだが、86年に対する印象だけズドンと落ち込んでいるような気がする。 なぜこれほどまで86年の自分をイケていないと思ったのか、86年の風俗その他の時代背景等々いろいろなものと照らし合わせてみた。 バブルの本格化前夜の東京にいたというのにあの憂鬱な、停滞した雰囲気、なんだったのだろう。 ああ思い出した。 その年、2回も派手にフラれたんだった。 それでだ、わははは。 |